【イスラエル】エルサレム旧市街③: 三宗教の聖地の由来

ヨルダン旅行・エルサレムの3宗教の聖地

2019年秋の、イスラエル・ヨルダン旅行の記事を書いています。

前回の記事では、エルサレム旧市街の遺跡や名所の一覧をシェアしてみました。今回の記事では、3宗教の聖地の由来について、もう少し詳しく書いてみようと思います。

歴史や宗教史が好きじゃなかったらちょっと退屈かもしれないんですが…. 興味があった読んでみてください。エルサレム旅行の豆知識になればと思います。


1. 三宗教の関係(アブラハムの宗教)

ユダヤ、キリスト、イスラムの三宗教は、「アブラハムの宗教」とも呼ばれ、神から選ばれたと言われる最初の預言者「アブラハム」を共通の祖としてます。三宗教は同じ唯一神信仰を持ち、聖典の一部も共有しています。

(Image by mollyroselee from Pixabay

アブラハムは、メソポタミア地方(現在のイラク)の遊牧民で、ある時神から「あなたの子孫にカナンの地を与える」というお告げを受けました。アブラハムは、一族を連れて長い旅をした末、カナンの地に移り住みました。カナンの地は、現在のイスラエル・パレスチナ地方に当たります。

アブラハムには「イサク」と「イシュマエル」という息子がいました。イサクはアブラハムの妻の子、イシュマエルはアブラハムの妾の子です。

ユダヤ教では、イサクの息子「ヤコブ」の子孫がユダヤ民族になったとされています。

イスラム教では、イシュマエルの子孫がアラブ人となり、後にアラブ人のムハンマドによってイスラム教が始まったとされています。

① ユダヤ教について

■ ユダヤ民族の祖

ユダヤ教の聖書によれば、アブラハム(父)・イサク(息子)・ヤコブ(孫)の三人が、ユダヤ民族の祖とされています。

アブラハムは、紀元前17世紀頃の人らしいので、ユダヤの歴史は約4,000年。3宗教の中では最も長い歴史を持ちます。

■ 預言者モーセと十戒

ヤコブの末子の「ヨセフ」の時代に、カナンの地(現在のイスラエル)を飢餓が襲い、イスラエルの民はエジプトに移住します。初めはうまくやっていたものの、エジプトの王朝が変わると奴隷として使われるようになってしまします。

そこに産まれた預言者の「モーセ」が、迫害に苦しむイスラエルの民を連れてエジプトを脱出。40年間荒野をさまよった末、イスラエルの民をカナンの地に連れ帰ります。

海を割って奇跡を起こしたモーセ

(Image by Jeff Jacobs from Pixabay

この旅の途中に、「シナイ山」という山に神が現れ、モーセは「十戒(Ten Commandments)」を授かったとされています。

2枚の石板に刻まれていたという10項目の戒律は、神とイスラエルの民と間に交わされたの契約のようなもので、これがユダヤ教の教えの基礎となりました。

モーセと十戒の石板

(Image by Gordon Johnson from Pixabay

■ ダビデ王とソロモン王

カナンの地に戻ったイスラエルの民は、紀元前11世紀頃から王制をとるようになり、王国が誕生しました。

ダビデの町

初代の王「サウル」は、王国を築く途中で挫折しましたが、二代目の「ダビデ王」が地域を統一。エルサレムを首都として「イスラエル王国」というユダヤ教国家ををつくります。

ダビデ王は、ミケランジェロの彫刻「ダビデ像」のモデルの人。英語では「King David」と呼ばれます。聖書の中で、ダビデ王は理想的な国王と伝えられていて、ダビデ王と息子のソロモン王の時代がイスラエル王国の最盛期となりました。

その後、王国は分裂したり、他国に侵略されたりして滅び、ユダヤ民族は世界各地へ散らばっていきます。

② キリスト教について

キリストの誕生

(Image by Jeff Jacobs from Pixabay

イエス・キリストは、紀元前4年頃、現在のイスラエルのベツレヘムでユダヤ人として生まれました。大人になってからは、エルサレムを拠点に活動していたようです。

イエスは、隣人愛などを説き、厳しい戒律を重んじるユダヤ教を改革するような教えをしていました。

ユダヤ教の祭司たちはこれをよく思わず、イエスを「ユダヤの王を名乗った」という罪で告発し、十字架に架けました。当時イスラエルはローマ帝国の属州となっていたので、刑の執行はローマ軍によって行われました。

当時イスラエルを治めていたローマ総督「ピラト」は、イエスの死刑には乗り気ではなかったのですが、ユダヤ教の人たちの世論に負けて死刑執行となってしまったといいます。ユダヤ教の人たちがキリストを十字架に架けたことは、後に彼らがキリスト教徒から迫害を受ける原因の一つともなりました。

イエス・キリストはユダヤ教徒でしたので、キリスト教は、イエスの死後に弟子たちがつくった宗教です。ユダヤ教の聖書(旧約聖書)と、イエスの教え(新約聖書)を経典としています。

③ イスラム教について

(Image by sinan kızılkaya from Pixabay

イスラム教は西暦610年頃、メッカ(現在のサウジアラビア)で起こりました。アラブ人の預言者「ムハンマド」が、神のお告げを受けて始めた宗教です。先ほど書きましが、アラブ民族は、アブラハムの息子「イシュマエル」の子孫であると考えられています。

イスラム教の教えでは、「ノア、アブラハム、モーセ、イエス、などの預言者たちの教えを、最後の預言者であるムハンマドが完全な形にした」と言われています。

ユダヤ教やキリスト教と、神や預言者は共有しながらも、イスラムの教えが一番正しいという立場を取っているわけです。

2. ユダヤの聖地
~神殿の丘と嘆きの壁~

ユダヤ教の聖地は、
①神殿の丘(Temple Mount)と
②嘆きの壁(Western Wall)です。

「神殿の丘」は、エルサレム旧市街の南東にある丘で、現在、黄金の屋根の「岩のドーム」が建っている場所です。イスラム教の聖地でもあり「ハラム・シャリーフ」とも呼ばれます。

イスラエル旅行・エルサレムの清での丘(ハラム・シャリーフ)
神殿の丘と岩のドーム

岩のドームの下には「基礎石(Foundation stone / エベン・シュティヤ)」という岩があって、そこは世界軸(天と地の接続点)であり、世界の中心であると言われています。

「神殿の丘」や「基礎石」については、様々な伝承が残されていていて、ユダヤ教では最高に神聖な場所とされています。

① イサクの燔祭

旧約聖書の中に、「アブラハムは神の命により、モリヤの丘で、愛する息子イサクを生贄に捧げようとした」という話があります。このモリヤの丘が、現在の神殿の丘であり、アブラハムが儀式に使った聖岩の場所と考えられています。

イサクの燔祭

(Image by Robert Cheaib from Pixabay

一説によれば、神はアブラハムの忠誠心を試したかっただけで、本当に生贄にさせるつもりは無かったらしいです。アブラハムがイサクを殺そうとした瞬間、神は満足し、神の使いを送って生贄を止めさせたそうです。

■ エルサレム神殿

紀元前10世紀頃、ダビデ王の息子のソロモン王が、神殿の丘に「第一神殿(The First Temple)」を築きました。「ソロモン神殿」とも呼ばれます。

神殿につくられた至聖所は「Holy of Holies」と呼ばれ、神が宿る最高に神聖な場所とされていたため、階級の高い祭司しか入ることを許されなかったとか。「Holy of Holies」には、「契約の箱(Ark of the Covenant)」という、モーセの十戒を刻んだ石板を入れた箱が納められていたそうです。

第一神殿は紀元前586年に、バビロニアの王朝に破壊されますが、紀元前516年には「第二神殿(The Second Temple)」が再建されます。紀元前20年頃には「ヘロデ王」が増築を行い「ヘロデ神殿」を完成させます。

ヘロデ神殿の想像図

ヘロデ神殿は、西暦70年頃にローマ帝国によって破壊されてしまいました。最も神聖な場所であった神殿を失ったユダヤ教の人たちは、残った西側の壁「嘆きの壁(The Western Wall)」を聖地として祈ってきたのです。

イスラエル旅行・エルサレムのユダヤ教の聖地・嘆きの壁(Western Wall)
嘆きの壁

現在でも、神殿の丘の上はイスラム教の管轄となっているため、イスラム教以外の宗教的儀式は行えません。

イスラエル旅行・イスラエルのユダヤ教の聖地・嘆きの壁と神殿の丘
嘆きの壁と神殿の丘

それから、最高に神聖な至聖所「Holy of Holies」が神殿のどの部分にあったのかは今でもはっきりしていないため、正統派のユダヤ教徒は、間違えて神聖な場所を踏んでしまわないように、神殿の丘には足を踏み入れないそうです。

3. イスラム教の聖地
~ハラム・シャリーフ~

神殿の丘は、イスラム教の聖地でもあり、イスラム教では「ハラム・シャリーフ(Al-Haram Al-Sharif)」と呼ばれます。

メッカ、メディナに次ぐ第3の聖地とされ、「岩のドーム(Dome of the Rock)」と「アル=アクサー・モスク(Al-Aqsa Mosque)」が建てられています。

エルサレムの聖地岩のドーム
岩のドーム
(Dome of the Rock)

エルサレムの聖地アルアクサ・モスク
アル=アクサー・モスク
(Al-Aqsa Mosque)

■ ムハンマドの夜の旅

聖地となったのは、イスラムの開祖ムハンマドの「夜の旅(The Night Journey)」に由来します。

ある夜ムハンマドは、天使ガブリエルに導かれ、天馬に乗ってメッカからエルサレムまで旅をします。そしてエルサレムから昇天し、神の御前でお告げを受け、その夜のうちにメッカに戻ったと伝えられています。

昇天する際に足をかけたのが、岩のドームに覆われている岩であり、岩の表面にムハンマドの足跡が残っていると言われています。

岩のドームは、西暦961年に、はウマイヤ朝第5代カリフであるアブドゥルマリクによって建てられました。

4. キリスト教の聖地
~聖墳墓教会~

キリスト教の聖地「聖墳墓教会(Church of the Holy Sepulchre)」という教会。この場所が、イエスが十字架に架けられた「ゴルゴタの丘」に当たると言われていて、教会の中には、イエスのお墓があります。

エルサレム・キリスト教の聖地、聖墳墓教会
聖墳墓教会

最初にこの教会を建てたのは、ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世。熱心なキリスト教徒であった母のヘレナの助言を受けて、326年頃から建設が始まったとされています。

その後、数々の火災や戦乱の中で破壊と修復を繰り返えされましたが、1808年の火災で大破し、今の建物が建てられたそうです。

エルサレム・キリスト教の聖地、聖墳墓教会
教会内にあるキリストのお墓

■ ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)

「Via Dolorosa」はラテン語で「苦難の道」という意味で、イエスが十字架を背負って歩いた道のことです。

死刑判決を受けたローマ総督ピラトの官邸から、刑場のゴルゴダの丘(聖墳墓教会)までの、約600メートルの道です。

イスラエル旅行・エルサレムの旧市街
ヴィア・ドロローサ

ヴィア・ドロローサは、キリスト教の巡礼者たちにとっては神聖な宗教儀式となっていて、要所で祈りを捧げながら、この道を辿っていきます。

この要所は「留」とよばれていて、1~14留まであります。英語では「Station 1~Station 14」と言います。

ヴィア・ドロローサの経路と14の留

各留には、下の図のようにローマ数字の目印が貼ってあります。これは5留目(Station V)。

エルサレムのヴィア・ドロローサ(Via Dolorosa)

ヴィア・ドロローサのスタート地点である1留(Station 1)は、イエスが死刑判決を受けた場所。ローマ総督「ピラト」の官邸です。

官邸だった場所は、現在は「エル・オマリア・スクール(El-Omariya School)」というイスラム教の小学校になっているので、いつでも入れるわけではないみたいです。この小学校の校庭に当たる場所で判決を受けたと言われています。

2留は「鞭打ちの教会」。イエスが鞭で打たれたあと、十字架を担がされた場所です。1留の「エル・オマリア・スクール」の入り口は、鞭打ちの教会の向いにあるので、教会を目印に探すといいと思います。
教会の地図

イスラエル旅行・エルサレムのヴィア・ドロローサ
ヴィア・ドロローサの出発点

↓↓↓ 鞭打ちの教会の敷地内

エルサレムのヴィア・ドロローサ(Via Dolorosa)

イエスが最初につまずいた場所と言われる3留。巡礼者のグループがお祈りを捧げていました。

エルサレムのヴィア・ドロローサ(Via Dolorosa)
3留(Station 3)

エルサレムのヴィア・ドロローサ(Via Dolorosa)
3留で祈りを捧げる巡礼者

毎週金曜日の夕方には、フランシスコ会の修道士が十字架を担ぎ、ヴィア・ドロローサを歩きながら祈りを捧げるそうです。これには巡礼者や観光客も参加して、大行進になるのだとか。

フランシスコ会の行進のスタート地点は、1留のある、「エル・オマリア・スクール」の校庭だそうです。開始時間は午後3時頃、とガイドブックには書いてありました。

ヴィア・ドロローサの詳しい情報は、ウェブで見つけたリンクを貼っておきますので、参考になればと思います。
各留の説明(ウィキペディア)
14留の写真
経路とマップ

地球の歩き方には、各留の説明や地図が、折り込み1ページを使って解説してあり、とても役に立ちました。

地球の歩き方~イスラエル編~

5. おわりに

今回の記事では、エルサレムに聖地を持つ3宗教の関係や、聖地の由来について書いてみました。

宗教関係の歴史的な出来事は、聖書の言い伝えなどに頼っている事が多いので、史実性が明らかになっていないものも多々あります。歴史的な根拠や、言い伝えがホントかウソかという議論は別として、「各宗教の人々がどんな信仰をもっているのか」が伝わったらいいなと思います。

次回の記事では、エルサレム旧市街で宿泊したホテルを紹介してみようと思います。聖地が見渡せる絶景ホテルです。お楽しみに~☆